「徳富蘇峰の人物とは?」その1 大町桂月

 明治から昭和にかけてのジャーナリスト徳富蘇峰という人物の評論。


 大正11年発行の大町桂月著作集、「筆のしづく」より。

 原文は文語体。





 かつて聞いたことがある。ある小学校で「楠公」(楠木 正成)という題を出して、文を作らせたときに、

 「楠公は人を以って作り、忠義の為に用いるものなり」という文を作った一生徒があったのだとか。

 この書き方をもって「徳富蘇峰」を評すれば、

 「蘇峰は才子を以って作り、新聞の為に用いるものなり。」とでも言おうか。



 学識は漢・洋を兼ねて、知識は内外に渡り、政治・宗教・哲学・教育・文学・歴史・美術、何でも一通りは知り、趣味が広く、学才もあれば、世に動く才能もあり、文章も達者、口も達者、交際も上手のようである。


 そうして勤勉で壮健であり、新聞を経営して筆を新聞にとる事、十年が一日のようである。本当に新聞記者として、至極重宝な人である。



 そう言ったならば、蘇峰は新聞記者として偉いように聞こえるけれども、全ての重宝なものは、決して偉くないのである。何でも出来るという人に、たいした人はない。

 分業の世の中、一事に精通しているのを尊ぶ。田舎の店屋のように、何でも間に合うというのは、重宝は重宝であるけれども、良品を求めるべきではない。


 博士の学位は、何でも知っているということを意味するでは無くて、一事に精通することを意味するのである。新聞記者としても、必ずしも何でも知っているのは必要としない。

 

 経済なら経済、外交なら外交、軍事なら軍事と、専門的に深い知識があるのが肝心である。

 その方が新聞記者として価値があるものである。知らず、蘇峰に専門的知識があるのか?そうでないのか。


 又よく新聞記者は、「布衣の宰相」との言葉があるが、知らず、蘇峰は「布衣の宰相」たる器量があるのか、無いのか。



 私は、蘇峰に顔を合わせたことが無い。その文といっても、絶えず読んでいるという訳でも無い。蘇峰について知っている所は、多くは世の中の噂で有るので、或いは誤解が全く無いということは無いだろう。


 元々、批評は、特に人物の評と言うものは、人を評するのではなくて己を評するのである。人をののしるのは、己を罵るのである。

 今の私の主観に映る蘇峰は、至極重宝な新聞記者に過ぎないのである。



 私は前後二回、蘇峰の演説を聞いた事がある。その言う所は、気が利いている。声色は、どうも快感を与えない、一種のしゃがれ声である。

 その声でその人となりを想像するに、常人以上に感心すべき人とは思われない。


 鳥に例えればカラスである。カラスは好んで腐ったはらわた等を食らう。良い声の出る筈が無い。

 知らず、カラスの腹の中には何ほどのものがあるか。


 天下の名士、蘇峰とも有る人を、カラスに比べるのは大いに気の毒であるが、実際私が蘇峰の声を聞いて感じたところを直言すれば、カラス以上には思われないのである。




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