天明の飢饉の被害状況と当時の様子。橘 春暉の文章より。
橘 南谿(たちばな なんけい)
宝暦3年4月21日(1753年5月23日) - 文化2年4月10日(1805年5月8日)
江戸時代の医者
私が奥羽(今の東北)に入ったのは、天明6年(1780年代)の春であったが、もはや土地も豊かになって食物も足りているだろうと思っていたのに、卯年の飢饉は京の方で聞いていたものの百倍のことであった。
人民はおおかた死に尽くして、南部、津軽の地の荒涼たること、誠に目も当てられ無い様子達であった。
まず、出羽の国秋田を過ぎて、だんだん奥深く入っていくほどに、外が浜通りなどの地では、1つの町で1軒も残らず死に絶えている所がはなはだ多い。
たまたま1つの村に生き残っている人がいるも、ようやく細々と煙を立てる家が2、3軒、或いは5、6軒ばかりである。
青森等は、港が大きく栄えている所であるのに、その荒れぐらいが甚しい。うとうの辺りが最もひどく、安方町の800軒の内、今は37,8軒のみ残っている。
外が浜を通行していたとき、向かいに見える村については、家作りも大きい様子で数も数百連なっているので、行って休息しようとしたのに、煙を立てて人が住んでいるのは1軒も無い。
かやぶきの屋根のみ残り、風雨に壁は崩れ障子は破れて、かまどのあたりと見える所に、どくろとがいこつがころころと残り、誰も取り納める者もなく、その哀れさは中々言うまでも無かった。
蓬田、繁田の辺りにては、天気さえ打ち曇って、小雨が降り出し、とても恐ろしい様子である。
旅人はもとより農夫、漁師もおおかたは死にうせて、早朝に宿を出てから夜の宿までは、人影というものに出会うことが稀であった。
ただ白骨が道端にあふれており、目の穴、口のはしより、とても白く細い草が生え出ているのが、風にひらひらと打ちなびいている。
その様子がひたすら心細くて物凄いのに、気力は衰え、足は疲れ、腹も飢えたので、草原に休んだ。
この奥に用事ありと言うわけでもないし、もうこれから引き返そうと言ったが、丹生(連れの人)はつくづくと思案して、
「もはや外が浜の尽きるところも十里に満ちません。帰った後に話をしようとして、見残したと言ったらどれほど残念でしょう。もう少しがんばりましょう。」
と言う。
そして私も「確かにそうだろう」と思って、遂に東北の果てまで行きつくした。
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