江戸城を築いた太田道灌、歌についての伝説と逸話。
原文は文語文。
太田 道灌(おおた どうかん) 室町時代後期の武将
没 文明18年7月26日(1486年8月25日)
諱(いみな) 持資(もちすけ)
太田左衛門大夫持資(もちすけ)は、上杉宣政の家老である。
鷹狩りに出かけて雨に会い、とある小屋に入って蓑を借りようとしたのに、出てきた若い女はなんとも言葉を言わずに、ただ山吹の花を一枝折って出してきた。
持資は、花を求めるのではないと怒って帰ってしまったが、この事を聞いた人が、それは、
「七重八重 はなはさけども 山ぶきの
みのひとつだに なきぞ悲しき」
(七重八重に花は咲くのに、山吹の実のひとつさえないのは悲しい。
種類により山吹は実がなりません。)
という古い和歌の心だろうと言う。
持資は驚いて、それより歌の道へ志した。
上杉宣政が下総の聴南にいくさを仕掛けるとき、山際の海辺を通っていた所、「山上から大弓を射かけられはしないか?」「また潮が満ちてしまった時はどうすべきか?」と危うく思っている、時にも夜のことである。
持資は「では、自分が見てこよう」と馬を駆り出して、やがて帰って来ると「潮はひいた」と言う。
どうして知ったのだと聞いた所、
「遠くなり 近くなるのみ 浜千鳥
鳴音に潮の みちひきをぞしる」
(鳥の鳴く音に、潮の満ち引きをしる。)
と詠んでいる歌がある。今は千鳥の声が遠くに聞こえる、と言った。
またいつの頃だったろう、軍を引き返す時これも夜の事であったが、利根川を渡ろうとするのに、暗さは暗く浅瀬もどこか知れない。
持資はまた、
「そこひなき 淵やはさわぐ 山川の
浅き瀬にこそ あだ波はたて」
(底が無い淵は騒ぐことあろうか?山川の浅い瀬にこそ浮き波は立つのだ。)
(深い想いが騒ぐことあろうか?浅い心であればこそ、浮つく波は立つのだ。)
と言う歌があると。
波音の荒いところを渡せば良いと言って、事もなく軍を渡らした。
持資は後に、道灌と称する。
雪玉実隆の和歌に、
「雨にきる みのなしとてや 山吹の
露にぬるるは 心つかじを」
(雨にきる為の蓑・実のがないという事だろう。
山吹の露に濡れるのは気が付かなかった。)
抄中「後拾遺和歌集」の中より、
小倉の家に住んでいた頃、雨が降っていた日に、みのを借りたいという人が居たので、山吹の枝を折って渡した。その人は心得ず通り過ぎて、また別の日に山吹が心得ないことを言い寄こして来たので、それに返答して言い使わした。
兼明親王
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