「天明の災変」その2 鈴木正長


 江戸時代 1783年8月5日(天明3年7月8日)

 浅間山噴火の話。その被害と状況、飢饉飢餓について。






 中でも高さが三間(約5.5メートル)長さが十三間(約24メートル)の大石さえも、一夜のうちに押し流して、みちのり十三里(約50キロメートル)でようやくとどまった。


 これはもとより焼け石であったので、その流れの水も大熱湯となって沸きかえり、石の上に流れかかったものは、草も木も忽ちに燃え上がって、恐ろしいというのも愚かな程であった。


 これほどの大石さえも押し流した程なので、その水流の村々すべて五十三村を、一時の間に押し流した。削りとられた地面は、水の深さ三丈二尺(約10メートル)余りを残して、新たに沼となった。

 

 人馬の死亡は数知れないとの旨が聞こえて来る。水の色は赤くなり血の様である。実に古今未曾有の地変とこそ言うべきだろう。



 浅間焼の前から雨が降り出し、長く天気が悪い日が続いた。二百十日に巽の風が大きく起こり、三日三晩吹き通した。

 

 そもそもこの悪天候が、六月の始めから九月の末まで四ヵ月に及んだというのが、ひどいものであった。これによって、いろいろな作物の色がますます変わってしまって実りが無く、稲の穂はからのまま立ち上がって垂れるものが無く、少し実が入るのが有るには在るとしても、長い悪天候のせいで実が傷んで、秋の作は皆無同然となった。


 そのため飢えを凌ごうとして、蕨の根、くずの根、或いは野老(ところ)の類を堀り取って、人の口へさえ入る物と聞けば、何にもよらず食べたけれど、なおその飢えをしのぐには足らなかった。


 飢饉は世間みな同じなので、仮貸しの道は絶えてしまった。中には飢えに絶えかねて、親に別れ子を捨てて、死んでしまった者も数限り無かった。

 

 強く盛んで有った者達で飢えが迫ったのは、日頃の心を変じて、徒党をなし穀物の蓄えある家々に押し入り、乱暴狼藉を働いて昼夜騒動が絶えなかった。非常な事どもであった。





0コメント

  • 1000 / 1000