与謝野鉄幹は正岡子規の後輩というのが明治歌壇(歌界・短歌界)の見立てで、雑誌等の報道では当時、正岡子規から与謝野鉄幹に向かって開戦状が発せられたと騒ぎ立て、大きなスキャンダルになりました。
正岡子規 明治34年「墨汁一滴」への寄稿
原文文語体の現代語訳
「去年の夏ごろある雑誌に短歌のことを論じて、鉄幹・子規と併記し両者が同一趣向であるかのように言っていた。しかし自分が思うに、両者の短歌はまったく標準が異なっている。
鉄幹が是ならば子規非である。子規が是ならば鉄幹非である。鉄幹と子規とは並称すべきものではないと。
そうして文書を鉄幹に贈って互いに歌壇の敵となり、自分は明星(鉄幹創刊の雑誌)に載っている短歌を批評することを約束した。つまりは両者を混同して同一趣向のように思っている者の為に、迷いを明らかにしようとしたのである。
それ以降、病状に休まる日が無く自ら筆を採らないこと数ヶ月、まだ前の約束を果たしていないのに、このことが世の中に誤って伝えられてしまって、鉄幹子規不可並称の説を持って、尊卑軽重に因るとなすに至った。
そうはいっても、これらの事件は他の事件と繋がって一時歌界(短歌界)の問題となり、甲乙の論争が大騒ぎを極めたのは、世の中の人をやや歌界に注目させた様子がある。」
0コメント