「橘良基の廉直さ」 頼襄


頼 山陽(らい さんよう)

安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日)

江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人




 橘良基の廉直さとその有名な言葉について。

 原文は漢文を現代語訳。




 橘 良基(たちばな の よしもと)は直実な人間で、民が富むことに勤め、邦を治めて当時最も優れている人であった。

 その民のうちで、怨みが有る家と争っている者があり、民は太政官に対してこれを訴えた。太政官は使いをやって、訴えられた方を厳しく尋問した。しかし良基は逆に訴えて来た者をおさめた。

 太政官の使いはそれを責めたものの、良基はそれを聞かず、やがては召されて獄へ捕らえられて問い詰められたが、それが終わらぬ内に死んでしまった。


 良基は五国守を歴任して、それを辞めて帰る際に、暮らしの糧となるものをもらわなかった。

 良基の子供はかつて、民を治めるすべを聞いたが、それに答えて言うには、

 

「百術は一清にしかず。」と。

(百のすべは、一の清きには勝らない)


 死ぬに及んで、家にあまったたくわえがなく、中納言であった在原行平が絹布を送って、わずかに葬られることを得たという。





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