「屏風の絵の人形踊り歌う」 伽婢子 浅井了意


寛文六年(江戸1661年)の刊行。全六十八話の怪談集



 細川右京大夫政元は、源義高公を取り立てて、征夷大将軍の任務を与えなさり、それによって背後で自らが権力を握り、勢力を大きくしていた。

 ある日政元はひどく酒に酔って、家に帰り横になって寝たが、面白げな物音が聞こえて目を覚まし、頭を起こしてそちらを見る。


 ところで、政元の枕元に立っている屏風には、古い絵が描かれて有る。いったい誰がかいたものかは知らないが、姿形のうつくしい女や少年が遊ぶところを、極彩色にあらわしたものである。

 今それを見れば、絵の中の女も少年も、屏風から飛び出て床に立ち並ぶ。わずかに大きさ五寸(15cm)ほどで、足を踏んで拍子をとり、手を打って歌をうたい、おもしろい踊りをする。

 政元が其の歌を良く聞けば、小さい声で、

 「世の中に、恨みは残る有明の、月にむら雲春の暮、花に嵐は物うきに、あらひばしすな玉水に、うつる影さへ消えて行く、・・・」


などと言って、繰り返し繰り返し歌い踊っているのを、政元は声を大きく怒鳴りつけ、

 「曲者(くせもの)共が、何をするのだ。」と言う。

すると小さい男も女も、あわてふためいて屏風に登り、元の絵になった。

 これらの事は、奇妙であること限りない。


 陰陽師の康方(やすかた)と言う者を呼んで、その一連の次第は自分に、はたして何の吉凶が起こることを知らせているのかを占わせれば、康方は言う。

 「屏風の絵にいる女は風流(ふりゅう)の踊りをしながら、花に風と歌う。そもそも全て風の字を使うときは慎みを意味していて、今回のことをこれから考えれば、"大変重い慎み"を意味しています。」


 これは永正四年(えいしょう、1507年)のことである。

 このことがあった翌日、しばらく身に重く慎みをかそうと、政元は肉食を断ち身を清めて、愛宕山に参ってそこにこもり、ひたすらに武運の長く続くことを、勝軍地蔵に祈りなされた。

 しかし、23日に山より下る途中に乗っていた馬が、坂口を通っているときに死んだ。

 明くる24日、我が家に帰り風呂に入っている時、政元の家の人間で、右筆(ゆうひつ、職名)の役を担(にな)っていたものが、敵と密かに結託して、突然風呂に入ってきて政元を刺し殺した。

 康方が"風の字は慎みである"と言ったが、まったく風呂に入っていて殺されたのも、占いでみたところと関係があるのであろう。



0コメント

  • 1000 / 1000