「立志についての思想」 平田篤胤

国文 中学読本 二の巻上  明治25年出版

平田篤胤(ひらたあつたね)の文から



 安藤為章の年山紀聞に、立志と云(言)ふ條ありて、新千載集(歌集)なる藤原信良の歌に、


 「水茎の岡べの篠の一ふしを 此の世に残す言の葉もがな」

 

 と詠まれしをあげたる、誠にこはよく、立志のおもむきに合へり。また同書に、続古今集なる紫式部刀自の歌に、


 「わりなしや人こそ人といはざらめ みづから身をや思棄つべき」


 と詠めるをあげて、此の歌は、自暴自棄のいましめともなりぬべしといへりしも別(こと)にめでたし。

 大概の世の人、すこし物の心を弁へたるハ、学問に志をおもむけざるはなけれとも、何事にまれ、すぐれてめでたきは昔人にこそあれ。いかで今人はなど、吾から思ひすて、はげみ学ばむとさへ、思ひたらぬは、いかにぞや。天地の間なる万物、みな古のままと見ゆるを、いかで人のミ、古におとるべき。などいへるひとさへぞある。

 上なる紫の刀自の歌に、人こそ人といはざらめと云へるは、いかにたけく心よき言の葉ならずや、かくたけき心なるから、いとめでたき書を作りて、世にのこし、天地と共に美名をも伝ふるぞかし、たをやめだに、心ざし高きはかかるを、あして大丈夫のかくめでたき御世に生れて、生涯かの西人もいやしめたる、飯袋となりて朽ちはてむは、いかに口をしきことならずや。





安藤為章(ためあきら)の年山紀聞という本の中に、立志という章があって、新千載和歌集の中にある藤原信良の和歌に、


 水茎の岡べの篠の一ふしを 此の世に残す言の葉もがな

(みずくきの岡の篠のひとくきを、この世へ残す言葉でもあれば)


と詠んだのを上げているのは、本当に良く、立志の趣にかなっている。

また同じ書の中に、「続古今和歌集」にのっている紫式部の歌の、


 わりなしや人こそ人といはざらめ みづから身をや思棄つべき

(道理無いことだ 人を人と言わないだろう 自ら身をも思い捨てることあろうか)



と詠んでいるのを挙げて、この歌は、自暴自棄のいましめともなるだろうと言っていたのも特にいいことである。

 大概の世の人の内、すこし物事の道理をわきまえた者は、学問へ志を向け無い者はないけれども、何事にもまして、すぐれてめでたいことは昔の人にこそある。どうして今の人というのは、自分を自ら思い捨て、励んで学ぼうと思いが足りないのは、何の理由であろうか。「天地の間にある万物は、すべて古のままに見えるのであるが、どうして人の身だけが、古に劣るのか?」とさえ言う人がある。

 上の紫式部の歌に、「人を人と言わないだろう」といっているのは、どれ程武く快い言葉ではなかろうか。これほど武き心であるから、とてもすばらしい書を作って世に残し、天地と共に美名を伝えたのであろう。

 女性でさえも志の高いものはこうであるのを、ましてや立派な男子がこのようなめでたい時代に生まれて、一生涯あの西人がいやしめたような、「飯袋」となって朽ち果てるのは、いかに口惜しいことではないだろうか。



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